2004年春 屏風山とはどんなところなのか行ってみた。
2004年春 屏風山とはどんなところなのか行ってみた。
砂丘地帯に造られた防風・防砂林
岩木川河口の十三湖から西海岸沿いの鰺ヶ沢にかけて、南北約30㎞東西3〜5㎞に七里長浜と呼ばれる天然砂丘が広がっている。一帯は「西風一度起れば風砂塵煙遠く数里に及ぶ」と言われ、茫漠たる不毛の地だった。屏風山は、人々の生活を守るため、この天然砂丘に植林・育林してできた防風・防砂林である。潮風・飛砂を防止する姿が、屏風を立回したようであることから屏風山の名がついたといわれる。
地形的特徴
海岸に沿ってクロマツを主体とした防風林が南北に延びている。その東側には東西に延びる縦走砂丘が何列にも渡り続いている。最も高い所で海抜78m、大体は20〜30mを上下している。この中には国内唯一?その名に天皇を冠する「天皇山」と呼ばれる山がある。縦走砂丘間の低地には、ベンゼ湿原や平滝沼など多くの湿地や自然湖沼群がある。現在は農業用ため池や砂採掘跡の人工池なども点在する。縦走砂丘群の東端部に、集落が南北に連なるように形成され、その東側に水田・畑作地帯が広がる。
屏風山の成り立ちは植林と荒廃の歴史
●植林開始
屏風山の植林は今から325年前の1682年、新田開発を行うための防風防砂を目的として、津軽藩4代目藩主津軽信政によって始められた。仕立頭の野呂理左右衛門が中心となり、地元部落に夫役を課すことによって20年間に雑木を主体に約72万本を植林した。その後も雑木16万本が植えられ、屏風山周辺には新たに66の村落と約4000町歩の田畑が開発された。
●1度目の荒廃
1784年(天明4)の大凶作を契機とする天明の飢饉により、これまで植栽されてきた屏風山の樹木は、周辺住民が食を得るために乱伐・盗伐された。続く天保の飢饉(1832〜1839年)でも乱伐・盗伐が繰り返され、屏風山の樹木は悉く伐採された。
●2度目の植林
再び強風・飛砂による被害が著しくなり、津軽藩は1855年に野呂武左右衛門(理左右衛門の子孫)らに命じて、屏風山一帯におけるクロマツの植栽を開始した。明治7年までの20年間に、延べ4万人の地元町村から夫役を投じて、約180万本が植えられた。このとき植栽された松林は「新松仕立山」と呼ばれ、現在もその一部が残っている。
●2度目の荒廃
1871年(明治4)の廃藩置県に伴う制度改革により、屏風山の管理責任者であった野呂家ほか三家はその資格を失うとともに、明治5年には土地永代売買の禁令が解かれたことなどから、森林管理体制が混乱・弛緩し、屏風山においても乱伐が発生するようになった。さらに74年から開始された土地の官民有区分によって屏風山は「官地民木林」(土地は国有、立木は民有)と認定されたことから、地元住民は立木の伐採が自由になったものと理解して、屏風山の乱伐は更に促進された。
●3度目の植林
乱伐の頻発を受けて1880年(明治13年)関係66ヶ村総代らは、地元住民による屏風山の自主管理を行うために、県令(県知事)に対して「屏風山永世無代価拝借願」を提出する。ようやく明治22年12月に30年間の無料拝借が許可され、「屏風山保護繁殖取締規約」が作られた。基本的に禁伐とする一方、積極的な植栽義務を定めた。
●3度目の荒廃
戦時体制の進展と戦後の混乱により、屏風山においても、戦時供木等の乱伐が行われるとともに、保護管理体制も手薄になったことから、屏風山の荒廃が急速に進んだ。一部の地域では海岸線沿いの砂丘が崩れ、内陸の採草地等が砂で埋まったという。
●4度目の植林
1959年(昭和34)、屏風山は複雑な所有形態である「官地民木林」を解消する「屏風山整備」が行われた。これにより、約1,200㌶が国営屏風山開拓建設事業によって開発されて畑地となり、海岸沿い地域の防風・防砂林約1,000㌶については青森営林局(当時)が国有保安林として、内陸の防風・防砂林約2,400㌶については青森県が民有保安林として、植林を進めた。県は、15年余りの短期間に約6億円をかけて、1,800㌶という広大な砂丘地帯を緑化した。人工砂丘(前砂丘)を作って後方に造林地を設置、砂の移動を止めるために埋ワラを敷く。静砂垣を巡らし、その内側に四方垣を立てて、1本ずつ植栽する。モッコ担ぎが永遠に続くのではないかと思われた難作業だった。強風、砂地、苗木など多くの困難な問題・課題に立ち向かい、達成されたこの事業は偉業といっていい。
海
岸
防
風
林
山
田
川
岩
木
川
日
本
海
水田
畑作
縦走砂丘
湿地湖沼
大小の湿地が多く点在する。向こうに見えるのは岩木山。 屏風山スイカ、メロンは全国ブランドに。その他野菜類を作付
五所川原市(旧市浦村)の防風防砂林
戦後の屏風山。写真上方に立萱工による植林地が見える
(「砂に挑む林」青森県森林組合連合会 平成5年)
屏風山の中を走る、自衛隊車力駐屯地へ続く通称ミサイル道路
五所川原市(旧市浦村)の海岸に面する国有林(第一線)
における防風・防砂林の植栽
カシワの天然林に縞状にクロマツが植栽されている
(高山稲荷神社に隣接する高山小公園の展望台から)
●そして、現在
そして、現在はどうだろう。屏風山があるのが当たり前と思われ、また、短期的収入を目的とした安易な土地開発が行われ、ゴミの不法投棄もしばしば目にする。屏風山の重要性に対する意識が低下したとき、荒廃の危機に向かうことを歴史が教えている。また、近年は松クイ虫被害の危険性が増大しており、被害先端地は秋田との県境南4キロ地点にまで迫っている。屏風山の重要性を再認識するために、現状を知る努力が重要だ。
(本ページは私共が行った「平成16年度あおもり県民政策研究 屏風山におけるエコシステムマネジメントの確立に向けた研究」の調査結果にもとに記述した)